東大寺といえば、大仏様が祀られる大仏殿、金剛力士像が構える南大門、この2棟が圧倒的に有名だが、他にも魅力的な建物が数多く残る。
今回は大湯屋を取り上げる。

大湯屋は、奈良時代にはすでに存在していたが、南都焼き討ちにより失われた。その後、建久8年(1197年)の再建され改修・修理を経て現在まで残り、国の重要文化財に指定されている。
大仏殿の裏側から二月堂へのぼる裏参道があるが、大湯屋はその途中にある。
参道からは、「二月堂供田」という田んぼ越しに外観全景が見え、仏さまを祀る仏堂がもつ神秘性とは違った、ゆったりしたおだやかな空気感をまとう。
横から見ると、前(写真右側)が入母屋、後(写真左側)は切妻である。屋根頂部には小屋根を立上げ煙出しとしている。軒先と田んぼの土塀の水平ラインと非対称な屋根形状がつくる構成はこの建物の大きな観察ポイントである。軒や棟の反り具合は、緩やかでおおらか。
現代に残る東大寺の建築の多くは、焼き討ち以降の復興建築である。鎌倉時代の復興の際、重源上人によって大仏様という大陸の様式が輸入された。
純粋な大仏様建築で現存するのは、東大寺南大門と浄土寺浄土堂(兵庫県)くらいであるが、細部の納まりは鎌倉時代以降のさまざまな建築の随所に使われている。
大仏様の特徴の現れ方の度合いが、地域ごとに異なっており、建築の地域差を表すひとつのパラメーターにもなる。
奈良近辺にある鎌倉時代以降の建築には、大仏様の影響が色濃く見られる。この濃さが、奈良の建築のおもしろさであり魅力である。

大湯屋も、焼き討ち後の復興建築ということで、やはり大仏様の細部意匠が随所に見られる。木鼻や実肘木の繰型、桟唐戸(これは禅宗様でも使われる)が目に飛び込んでくる。柱と柱は、腰貫、内法貫、頭貫によって繋がれ、長押はない。

連子格子が随所に付くが、正面と側面の前の方は、細くて繊細な連子窓、後の方や床下は太い連子というように、場所によって使い分けている。機能性と意匠性から決めたものか、あるいは、床下の連子は後補のものだろうか。

組物まわりを見ると、一手先の斗で桁を支えているが、柱の通りでも実肘木の上に桁を載せてる。基本は、垂木を支える(外観に表れる)横架材は丸桁一本だが、東大寺大湯屋では2本の桁で支えている。なかなか見ない珍しい構成である。切妻側から見ると、桁が近接して2本並んでいるのがよくわかる。
東大寺の建築を見ていて感じるのは、完全に整った形にするのではなく、少しの遊び心、くずしの要素があるということ。当時一流の工匠が手がけたものであると思われるので、完璧に整った文句のつけようがない建物を設計しデザインし造る技術は持っていたはずである。それにもかかわらず、東大寺の建築では、あえて残したと感じさせる不完全さと非常に美しい形を持った部分が共存して独特の雰囲気をまとっているところに惹かれる。
大湯屋を過ぎると、二月堂へ向かって蛇行しながら伸びる道がある。いつ頃からこのような景色だったのかはわからないが、古色蒼然としている。黒い安山岩による延段や石積、土色の土塀、瓦の納め方などに目を引かれる。この辺りは、二月堂の修二会の時期になると大変活気があり、それによってこの景色が支えられているのだろうと思う。



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