社寺建築では、古くからいろいろな部分が絵様(えよう)≒彫刻によって飾られてきた。
懸魚、蟇股、木鼻・拳鼻、手挟み、実肘木、虹梁、などなど・・・・
これらは、時代ごとに異なる形をしているため、絵様を見ると建てられた時代が、おおまかに推測できたりする。
上にあげた部材は、絵様の出現が古い順番に並べている。
懸魚や蟇股や虹梁は奈良時代の建築にはすでにみられる、古い部材である。しかし、積極的に彫刻がされるようになるのは、蟇股は平安時代、実肘木・虹梁は桃山時代以降と思われる。
鎌倉時代に、大仏様と禅宗様が伝えられ、木鼻が使われはじめる。大仏様では、繰型だけのシンプルなものであったが、禅宗様では当初から渦を彫った装飾的なものであった。
鎌倉時代末期に手挟みが使われ出し、桃山にもなると前述のように実肘木や虹梁にも彫刻をするようになる。
江戸時代には、建物をつくるにあたっての、力の入れ所が以前とは異なってくる。従来は、もっとも主眼をおくのは建築物そのものの形であって、蟇股や懸魚といった彫刻はアクセントとしての飾りであった。江戸時代になると、これが逆転する。彫刻が建築物の主役になるのである。
この要因としては、『匠明』に代表されるような木割書がまとめられたことがおおきい。
木割書にならえば、柱間(スパン)を決め柱の寸法が決まると、その他のほとんどの部材寸法が比例によって算出できる。つまり、建築を構成するいろいろな部材の大きさについて、頭を悩ませて決めるという労力が激減する。その結果として、豪華な彫刻に力を入れるようになったのではないか。
これによって、江戸時代の建築には、従前の建築が持っていた構造体としての緊張感のようなものが失われてしまった。そのかわり、複雑な彫刻を彫る技術は向上した。
明治時代になってから、日本に現存していた古い建物を対象とした「建築史」としての研究が進み、古い建物の様式が整理されたことで、上に述べたようなことがひとつの流れとして分かるようになった。このため、今の私たちがみて、この時代の建築がいい、わるい、好き、嫌い、ということがいえるようになった。今の時代に、すぐれた意匠をもつ社寺建築をつくるには、今より昔に建てられた事例を知る努力が必要であるとと感じる。
木割に沿って形を決めれば、それらしい建築ができてしまう。雛形本に沿えば、一間見栄えのする派手な建築が簡単にできてしまう。この中には、とても便利ではあるが意図せずいまいちな建物が出来上がってしまう可能性も含まれているように思われる。
各時代の建築がどのような特徴をもっていて、どのような意図をもってそれを規範とするのか。江戸時代の木割に沿うとしても、それが完成するとどのような印象の建物になるのか。
現代において、美しい社寺建築をつくるためには、それを考えて選んで実行するための情報リテラシーのようなものが必要とされているように思う。


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