断続的な雨の中、大神神社を参拝した。
社寺を訪れるときに晴れているのは、とても気持ちのいいものであるが、建築の写真を撮ろうと思うと少し不自由がある。古建築は屋根が大きく軒が深いので、日差しが強いと屋根の下が影になる一方で屋根は非常に明るくなってしまい、コントラストが強くなりすぎてしまう。もちろん、rawデータから現像したりPhotoshopで調整したりすることもできるのだろうが、めんどうくさがりの私はJPEG撮影だけで済ませたいのである。そのため、建築の写真を撮るときには適度な明るさがある曇りの日が最適だと思っている。
しかし、雨の日も割と好きだったりする。植物が生き生きとして見えるし、艶やかな瓦屋根から雨滴がしたたる様子をカメラに収められたりしたらテンションが上がる。
大直禰子神社について

さて、この日の主目的は大神神社摂社大直禰子神社である。読み方は、「おおたたねこじんじゃ」である。ここは、一般には若宮と呼ばれていて、大神神社の主祭神である大物主神の御子大田田根子命を祀っている。大直禰子神社には社務所と、一棟の社殿が建つ。鳥居から社殿は一本の軸線上に並び、社殿の周囲には高木が立ち並ぶ。後述する通り、この社殿は以前はお寺の建物であるので、鳥居越しにお寺の建物が見えるという不思議な景観である。
この社殿はとてもおもしろい。現在は神社の建築として使われているが、以前は大御輪寺という神宮寺であった。そして、明治時代の神仏判然令(いわゆる神仏分離、廃仏毀釈につながる)の影響を受ける以前は、あの有名な、聖林寺の十一面観音が祀られていたのである。昭和62年から平成元年にかけて行われた解体修理の報告書には、天井裏から多数の仏像断片が発見されたことが記述されている。この仏像断片を天井裏へ上げた方は、どのような心持だったのだろうか。現在は国宝に指定されている十一面観音でさえ縁の下に横たえられていたとのことであるから、廃仏毀釈というのは厳しく過酷なものであったのだろう。
この社殿には、現在は神様が祀られているので神社の建築、ということになるが、一般的な本殿と呼ぶには似つかわしくないので「社殿」という広義的な呼称が使われていると思われる。
大直禰子神社社殿の形は中世の仏堂そのものであり、外陣と内陣が格子の引き違い戸で結界を設けている点が密教建築を彷彿とさせる。神様を祀る建物としては、中世仏堂は規模が大きすぎるようで、外から覗いた限りでは、やや空間を持て余しているように見えた。
建築的特徴
この建築は、解体修理によって、何度かの改修の履歴が明らかにされている。この場所に建物がはじめてつくられたのは奈良時代後期のようである。そして、平安時代後期、鎌倉時代初期、弘安8年(1285)、応永19年(1412)、明治17年(1884)に大きく改修が行われており、平面(間取り)が大きく変遷してきた。現在見られる建物は、弘安8年(内陣のみ桜栄19年)の姿に復元されたものである。

瓦屋根は勾配が大きく存在感があるが、それに比して大棟が短いのが特徴的である。そのため、隅棟が長く、伸びやかである。入母屋屋根で大棟が短いのは中世以前建築の特徴でもある。外陣の組物は平三斗に虹梁鼻を組み合わせている。一方で内陣の組物は舟肘木である。この違いは、そのまま、作られた年代の違いを表している。報告書によれば、外陣の平三斗の部材の多くは鎌倉初期のもの、内陣の舟肘木は平安後期のもが多数あるとのこと。また、左手隅の柱をはじめとして、奈良時代の部材も少し残っているようである。


外部を一見したうえでのいろいろな”違和感”は、改修が何度も行われてきたことを示していた。各時代に、使い勝手に合わせて改修を行うことは決して珍しいことではなく、広く行われてきたことではある。一方で、この建築のように、その経過がある程度想像できるくらいの形で現存している例というのはそれほど多くはないのではないだろうか。そういった意味合いで、とてもおもしろ建築であると感じたわけである。
この建築は、現在は神様をお祭りしているので「2礼2拍手1礼」でお参りするのが形式なのだろうが、仏堂を目の前にして神社の作法でお参りするというのもなんだか違和感があると感じるのは私だけでしょうか。「2礼2拍手1礼」について調べたところ、想像以上に歴史が浅いことが分かった。お参りの形式にはあまり深くこだわらず、敬虔な気持ちでお参りするという内面的なところに注力するのがいいのかもしれない、と思った旅でした。


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